海南島2007年5月
日本軍の住民虐殺の場で、生き残った人びとの証言を聞いて………
紀州鉱山の真実を明らかにする会
■月塘村で
前回(2007年1月)の海南島「現地調査」のとき、わたしたちは月塘村で朱学平さんらから話を聞かせてもらいました。
その4か月後、2007年5月に、わたしたちは、月塘村を再訪し、幸存者のほとんどのかたから話を聞かせてもらうことができました。

日本軍が月塘村に侵入してきた道向かって右が月塘(月の形をした沼)
朱建華さん(1944年生)は、当時、生後8か月で、お母さんが抱いてかばってくれたそうです。お母さんも朱建華さんも刺されながらも命を奪われませんでしたが、4歳の兄は刺され、即死したそうです。朱建華さんの身体には日本軍に刺された傷跡が数か所残っていました。

廃屋になったままの隣家の前に立つ朱建華さん11人の家族全員が殺されたという
朱学超さん(1945年生)は、当時3か月でした。下腹部を刺され、睾丸をひとつ切り取られたそうです。朱学超さんは、そのとき、祖父の朱鴻里さん、父の朱開輝さん、兄の朱学金さん、姉の朱桂二さんと朱桂三さんを失いました。祖父は67歳、父は44歳、兄は8歳、姉は5歳と3歳だったそうです。

朱学超さん
朱光清さんの家を日本軍が襲ったとき、まだ陽はのぼっていなかったといいます。その家のあった場所で、朱光清さん(1934年生)は、
「とつぜん家にはいってきた日本兵に、おなかの右下を刺された。血まみれになり、腸がとびでた。手でおさえて逃げるとき、右足を切りつけられた。血がいつまでも止まらなかった。門のそばで母が殺された。43歳だった。
日本軍がくる前に父が死んでいたので、両親がいなくなった」
と、遠い所を見つめるようにして、低い静かな口調で話しました。朱光清さんの腹部に深い傷跡が、右足首上部にも細長い傷が残っていました。
ここで母が殺されたと語る朱光清さん
朱秀容さん(1936年生)は、
「あの日、日本軍は、祖母と3番目の伯母と、わたしと、もう一人の4人をつかまえ、銃をつきつけて並ばせ、お辞儀をさせた。日本軍は、ひざまずいた祖母の首を切った。続いて伯母が殺される瞬間、わたしは逃げた。隣りの家との間の細い隙間をとおりぬけて走った。こわくて、どこまでも逃げた。
山に入りしばらく家に戻らなかった。食べるものも着るものもなかった。当時、万寧一帯は大飢饉だった。飢え死にした人がたくさんいた。
まもなく日本軍が負けて海南島からいなくなった。そのとき日本軍を殺す機会がなくなったことが悔しかった。
日本兵を恨みつづけてきた。
いま、当時のことを話して、すこしこころが軽くなった」
と、祖母と伯母が殺された家の跡で話しました。

祖母が首を切られた場所を示す朱秀容さん
■256人
虐殺3年後の1948年に月塘村で生まれた朱振華さんは、成人後、獣医をしながら、村の家を1軒1軒、なんども訪ねて聞きとりをし、月塘村虐殺の実態を知ろうとしてきたといいます。
朱振華さんの綿密な「調査」によると、1945年5月2日に日本軍に殺された村人は256人でした。
1994年4月1日に、中国海南省万寧県万城鎮月塘村全体村民は、「要求日本国政府賠償請願書」(執筆人:朱振華)を中華人民共和国外交部に提出し、日本国政府に提出するように求めました。
そこには、つぎのように書かれていました。

「要求日本国政府賠償請願書」
■「要求日本国政府賠償請願書」
「1945年5月2日(中国農暦乙酉3月21日)、日本侵華軍駐海南万寧県万城部隊は、理由なくわれわれ月塘村村民を包囲し殺害した。無辜の村民286人が殺傷された(そのうち現場で死亡した者およびそのときの傷が直らず死亡した者は256人、受傷者中いまも健在な者は18人である)。
この日、日本軍は月塘村内の家屋70軒を焼き、多くの耕牛などの財物を強奪した。
日本軍は月塘村3月21日惨案をひき起こして、われわれ月塘村の100以上の家庭から親しい家族を失わせるという苦痛をあたえ、われわれ月塘村村民に、ことばでは言い表すことのできない肉体的精神的物質的損失をもたらした。
49年が過ぎたが、われわれ無辜の受害者に誰も責任をとろうとしていないことに対して、われわれはこころから憤慨し、日本政府に厳正につぎのことを要求する。
1、
わらわれ月塘村村民に対し、国際社会に公開で謝罪せよ。
2、
受傷幸存者と犠牲者家族に賠償せよ。
3、
月塘村に死者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ。
4、 焼失した家屋、強奪した財物を弁済せよ。
日本軍がひき起こした月塘村3月21日惨案にかんするわれわれ月塘村村民の要求に対して、日本国政府が具体的に回答することを希望する。そうしないことによって生じるいっさいの「不良后果」の責任は、すべて日本政府が負わなければならない。
この文書を中華人民共和国外交部が日本国政府に渡していただきたい」。
■「月塘惨案受害者登記表」
「要求日本国政府賠償請願書」には、「月塘惨案受害者登記表」が付けられており、256人の犠牲者と30人の幸存者の名が記されています。
そこには、1歳の幼児1人、2歳の幼児6人、3歳の幼児7人、4歳の幼児4人、5歳の幼児3人、6歳の少年・少女4人、7歳の少年・少女2人、8歳の少年・少女5人、9歳の少年・少女5人、10歳の少年・少女9人がふくまれており、名が記されている二人の女性の欄に、「一屍二命」という「注」がつけられています。

「月塘惨案受害者登記表」
■戦犯を「象徴」とする日本国で
1945年5月2日朝未明に月塘村を襲った日本海南海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵たちは、わずか4時間ほどの間に、生後まもない嬰児、幼児、少年・少女をふくむ村民を殺し、妊娠している女性を胎児とともに殺しました。
日本兵たちは、日本敗戦後、日本に戻りました。かれらは、海南島でおこなった犯罪を隠し、責任をとらないで、最悪の戦犯ヒロヒトを「象徴」とする日本国で生きつづけました。
朱振華さんは、わたしたちに、月塘村を襲った日本軍の部隊名を知りたいといいました。
残念ながら、わたしたちのこれまでの調査では、海南海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧派遣隊であったとしか答えることができませんでした。
■『月塘村惨案』制作
わたしたちは、朱振華さんら村人に案内されて、月塘村虐殺にかんする重要な証言と場面を影像で記録することができました。
6月初めに日本に戻ったわたしたちは、すぐに月塘村虐殺を伝達するドキュメンタリー『月塘村惨案』制作準備を始めましたが、その最初期の段階で、このドキュメンタリーは、月塘村のみなさんとともに、月塘村で制作すべきだ、と気づきました。
ことし10月の1か月間、わたしたちは、月塘村に住まわせてもらい、村人とともに『月塘村惨案』を制作したいと思っています。参加しよう思うかたは、連絡してください。
■北岸村で
1941年6月24日深夜、日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する日本軍部隊が、瓊海市博鰲鎮北岸郷(旧、楽会県北岸郷)の北岸村と大洋村を包囲し、翌日未明に襲撃を開始しました。
北岸村で幸存者に会い、話を聞かせてもらうことができました。

北岸村に1948年に建てられた追悼碑
何子佳さん(1923年生)は、こう話しました。
「日本軍が村を包囲したとき、わたしは家を出て村はずれまで逃げたが、そこにも日本軍がいた。それでひきかえして途中の川に入り、対岸に泳いで渡った。それで運よく逃げだすことができた。
あの日、父が殺され、妹二人が殺され、伯母が殺され、めい二人が殺された。日本兵はみんなを殺したあと火をつけて焼いた。まだ生きているうちに焼かれた人もいたと思う。
父の名は、何君輝。53歳だった」。

何子佳さん
何君範さん(1935年生)は、こう話しました。
「あのときのことはよく覚えている。忘れることができるはずがない。
何君志と何君日の家に入った日本兵は、家に火をつけたあと、ひとりずつ殺しはじめた。
わたしは、腕と腹と背中を刺された。右の口元も切られた。日本兵は、わたしのような子どもも平気で殺した。わたしを刺した日本兵は20歳くらいだった。わたしは気を失ったが、熱いので意識がもどった。
日本兵はいなくなっていた。からだが血まみれになっていた。まわりが燃えていた。日本軍が火をつけたのだ。
父はあの日、薬を売りに出かけていて助かった。母(馮崇波)も父といっしょだった。
わたしの家で最初に殺されたのは、弟だった。名前は何君鴻。1歳半くらいになっていて、よちよち歩きをしていた。とても可愛いかった。日本兵は、あんな小さな子を生きたまま火で焼き殺したのだ。妹も殺された。まだ生まれてから4、5か月だった。遺体がみつからなかったので、どのように殺されたか、わからない。
あのとき、姉が2人、兄が1人、弟が1人、妹が1人、伯母が1人、兄嫁が1人、殺された。わたしは4男だ。2番目の姉は家にいて殺された。もうひとりの姉は、あの日別の家にいて、日本兵が来たとき水がめに隠れて助かった。
父と母が帰ってきて、みんなでずいぶん泣いた。母はよく働く人だったが、それからすっかり気力を無くしてしまい、まもなく死んでしまった。41、42歳だった」。
話し終わってから、何君範さんは、わたしたちに腕と腹と背中の傷を見せてくれました。くちびるの左上には3センチほどの傷跡が残っていました。日本兵に切られたあと数年間はうまく話すことができなかったそうです。
何子徳さん(1938年生)は、こう話しました。

何君範さん
「日本兵が来たとき、わたしは3歳になっていなかった。母はわたしを抱いてテーブル横の寝台の下に隠れた。二人の兄も寝台の下に隠れた。母は見つかって日本刀で切られて即死した。母が全身でかばってくれたが、わたしは同じ日本兵に3か所刺された。いまも傷跡が残っているが、胸を2か所、右腕を1か所だ。
小さな子どもを抱きしめている母親を殺し、その子どもまで殺そうとする日本人は人間ではない。あなたたち、日本人はどう思うか!
いっしょに寝台の下に隠れた兄も二人とも殺された。うえの兄は何子錦、したの兄は何子成。日本軍が村を襲って来たとき、殺されたとき母は40歳くらいだった。姉の何子蘭はよその家にいっていたが、そこで殺された。16歳くらいだった」。

何子徳さん
■長仙村で
月塘村虐殺をおこなったの万寧守備隊と同じ日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する中原・橋園・陽江地域の部隊は、月塘村虐殺の20日前、1945年4月12日に、瓊海市九曲郷の長仙村地域で多くの村民を虐殺しました。
わたしたちは、5月26日に長仙村に行き幸存者から話を聞かせてもらいましたが、その前日に、幸存者の一人、許式容さんが81歳で亡くなっていました。許式容さんは抱いていた娘の欧婦蘭さんを刺し殺され、自分も14箇所刺されましたが、生き残ることができたとのことです。
許式容さんのことは、息子の欧宗柳さん(1940年生)に自宅前で聞かせてもらいました。
欧宗柳さんも13か所刺されたと言って、その傷跡を見せてくれました。欧宗柳さんの父は、「良民証」を持っていなかったので日本軍につかまったが逃げ出し、銃で2か所撃たれてまたつかまり、電気で拷問されたそうです。そのときは生きのびましたが、肺を痛め、まもなく亡くなったとのことです。

欧宗柳さん
欧宗柳さんは、はじめ、わたしたちに何も語ろうとしませんでしたが、周りの村人に「説得」されてようやく話してくれました。欧宗柳さんは、家族を殺されていらいずっと、日本兵に「報仇」することを思いつづけて来たのだと、別れ際に言いました。
■西截村で
5月25日に、月塘村から直線距離で北15キロほどの和楽鎮発興村(旧西截村)に行きました。
蔡徳佳・林国齋「日本占領万寧始末――制造“四大屠殺惨案”紀実」(万寧県政協文史弁公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』1995年7月)には、“龍滾を拠点とする日本軍部隊の兵士100人あまりが、1939年10月19日(農歴9月7日)に、西截村を襲撃し、115人を殺害した”、と書かれています。
蔡春究さん(1919年生)は、わたしたちに、
「日本軍が村にきたとき、まだ暗かった。わたしは家にいて臼でもみをついていた。精米して市場で売るためだ。
日本兵はとつぜん家に入ってきて、父と叔父ふたりを殺した。母も刀で胸を4か所刺された。母は、つぎの日に死んでしまった。
わたしも首を切られそうになったが、その日本兵をつきとばし、日本兵が落とした銃を拾おうとしているすきに逃げることができた」
と話しました。

蔡春究さん
蔡春究さんの従弟の蔡東太さん(1932年生)は、
「日本軍がきたとき、家の門のうしろに倒れるようにして隠れて助かった。父と母が殺された。わたしをふくめて子ども5人が生き残った。母は気性の強い人だった。日本兵に抗議し、すぐに殺された。
両親が殺されたので、生活していくのが難しかった。わたしは、7歳だったが地主の家で働いた。飢饉のとき、2番目の兄と弟が死んだ。
日本兵を見つけたら殺したい」
と話しました。
蔡朝家さん(1920年生)は、
「わたしの家は6人家族だったが、3人が日本軍に殺された。わたしは、日本軍が村に入ってきたとき家の外にいて、すぐ気づいたので椰子の樹にのぼった。
樹の上から、日本兵がたくさんの村人を殺すのを見た。椰子の樹には身体を隠す場所がなかったので、日本兵に見つかるのではないかと思って、とても怖かった。その怖さをいまでも忘れることができない。
とくに強くこころに残っているのは、日本兵が蔡王海の頭を日本刀で切ったときのことだ。あたりが血だらけになった。1人の日本兵が首を切ったあと、もう1人が腹を刺した」
と話しました。

蔡朝家さん
■万寧大飢饉
蔡東太さんが、「飢饉のとき、2番目の兄と弟が死んだ」と静かな口調で言いましたが、万寧大飢饉の根本原因は、台風や旱魃や虫害などではなく、日本の海南島侵略でした。
万寧地域でも日本軍は、1939年いらい、軍用道路や軍用施設建設に農民を強制的に働かせて農作業の時間を少なくし、多くの村を襲撃・破壊して蔡東太さんの両親のように働く人の命を奪い、農地を荒廃させ、「現地調達」と称して日本兵の食料とするためにコメや豚や牛や鶏を奪って農民の備蓄を不可能にしました。
■羅駅村で
日本政府・日本軍は、海南島で「厚生公司」にアヘンを生産させました。
「日本軍は土地を奪い、村人に、稲やアヘンや砂糖キビを植えさせた。村はずれに精糖工場をつくって砂糖キビから砂糖をつくった。
わたしは、アヘン農場で働かされたことがある。水田で働いても金をもらうことはなかったが、アヘン農場で働いたときには金をもらった。
監督は、台湾人で、日本人はほとんど姿を見せなかった」。

写真15 羅駅村の畑 かつてアヘン用のケシが植えられた
李学三さんは、こう話しました。
「1939年農暦12月22日朝9時ころ、日本軍の飛行機が村の上空に来て、爆弾を5発落した。家が3軒壊され、子ども一人と老人一人が死んだ。子どもの身体が吹き飛ばされ、内臓が樹の枝にぶらさがった。この日、日本軍は、近くの潭池村に共産党員が隠れているといって、かくまったと疑った家の人を全部殺した。
日本軍は、はじめ村の畑地に砂糖キビを植えさせた。日本軍といっしょに来た日本人が、ある年、村人に大規模にアヘン用のケシを植えさせた。しかし、大雨が降り、ケシの苗が水浸しになって全部枯れてしまった。その後は、ここでケシが植えられることはなかった」。
かつてケシが植えられたことがある広い畑の脇の道を、南に200メートルあまり歩くと、羅駅村の中心部に着きます。その手前の1000平方メートルほどの空き地がケシ栽培の試験農場跡でした。

日本軍の爆弾で破壊された家の跡
写真一覧
写真1 日本軍が月塘村に侵入してきた道
向かって右が月塘(月の形をした沼)
写真2 廃屋になったままの隣家の前に立つ
朱建華さん
11人の家族全員が殺されたという朱建華さん
写真3 朱学超さん
写真4 ここで母が殺されたと語る
朱光清さん
写真5